ヒナまち ひなまち 雛まち 人形 岩槻 おもかげ雛

歴史の街散策コース

歴史の街散策コース

まずは、岩槻の成りたちから見てみましょう

岩槻区の歴史・沿革

■岩槻区の歴史

 岩槻区は、さいたま市の東部に位置し面積は49.16平方キロメートルを有します。区域の中央部と北東部は台地になっており、区内の南北を流れる元荒川・綾瀬川の流域は低地で所々に自然堤防が発達しています。

 自然環境に恵まれた岩槻の地は古くから開けた所で、区内に数多く残る遺跡から発見された出土品などによると1万年以上前から人間の生活が営まれていたことがわかっています。縄文時代前期と後期には陸地に海が浸入し、台地部には国史跡真福寺貝塚をはじめとする貝塚が多くできました

 岩槻(岩付)の名が歴史上初めて登場するのは、「長谷河親資着到状」(はせがわちかすけちゃくとうじょう)という古文書のなかで、室町時代初期の永徳2年(1382)のことです。この年の5月岩槻で合戦があったことが記されています。

 江戸時代まで岩槻周辺には利根川(現・古利根川)、荒川(現・元荒川)などの大河が流れ、また東北地方に通じる主要な街道が通るなど水陸交通の要衝でした。このため、岩槻は軍事上の拠点として時の有力武将から重視され、城が築かれるに至ったのです。

 江戸時代に日光東照宮が造営され日光社参が始まると、日光御成道が整備されました。城下町としてまた宿場町として、岩槻は武蔵国東部の中心地として大いに栄えたのです。
画像の説明

 明治に入っても南埼玉郡役所が置かれるなど、埼玉県東部の政治・経済の中心地であり続け、町作りも活発に行われました。昭和29年(1954)には、岩槻町、川通村、柏崎村、和土村、新和村、慈恩寺村、河合村が合併し、岩槻市となり、市制施行当時約3万5千人だった人口も、都市化の進展により今では11万人を数えています。そして、さいたま市・岩槻市の合併により、平成17年4月1日さいたま市の第10番目の区として「岩槻区」が誕生しました。

■岩槻城の歴史

 岩槻城は室町時代の後半に築かれたといわれていますが、築城者については太田道灌(どうかん)とする説、父の太田道真(どうしん)とする説、忍(おし・現行田市)城主成田氏とする説など様々です。ただ、16世紀の前半に太田氏が城主となっていたことは確かなようです。

 永録10年(1567)三船山合戦(現千葉県富津市)で太田氏資(うじすけ)が戦死すると小田原北条氏が直接支配するところとなりました。北条氏は、天下統一を目指して関東への進出を図っていた豊臣秀吉と対立。やがて天正18年(1590)5月20日、豊臣方の総攻撃を受けた岩槻城は2日後の22日、落城してしまいました。同年、豊臣秀吉が北条氏を滅ぼすと徳川家康が江戸に入り、岩槻城も徳川の家臣高力清長(こうりききよなが)が城主となりました。

 江戸時代になると岩槻城は江戸北方の守りの要として重要視され、幕府要職を務める譜代大名の居城となりました。戦国時代から江戸時代まで続いた岩槻城でしたが、明治維新後の明治6年(1873)廃城となりました。城の建物は各地に移され、土地は払い下げられて、およそ400年の永きにわたって続いた岩槻城は終焉の時を迎えたのです。

こちらでは、埼玉県の城下町「岩槻」の史跡を紹介しています。

岩槻の史跡紹介アルバムにリンク
 
まちかど雛めぐり(旅と歴史)にリンク

powered by Quick Homepage Maker 4.81
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional