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慈恩寺

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古都を感じる 奈良コレクション» 著者・コラム紹介 玄奘三蔵の旅
2011年08月23日(Tue) 西山 厚   

<転用記載>

  中国から天竺(てんじく/インド)へ仏典を求めて旅をした三蔵法師。お伴は孫悟空、猪八戒、それに沙悟浄とくれば、おなじみ『西遊記』の世界である。

 これは小説であって、そのままが事実でないのはもちろんだが、『西遊記』の三蔵法師にはモデルがいる。唐時代の玄奘(げんじょう)三蔵である。

 玄奘は627年(629年とも)に長安(現在の西安)を旅立ってインドへ向かう。そしてインドのナーランダーで学んだのち、多くの仏典と仏像をもって、645年に長安に戻ってきた。

 帰国後は仏典の翻訳に専念。玄奘が訳した仏典によって、法相宗(ほっそうしゅう)という宗派が成立する。

玄奘三蔵の旅の行路
(藤田美術館所蔵「玄奘三蔵絵」全12巻の構成)
拡大画像表示 法相宗の大本山である奈良の薬師寺では、毎年5月5日に玄奘の遺徳を顕彰して「玄奘三蔵会(え)」をおこなう。前日には記念講演があり、今年は私が「玄奘三蔵を慕う」という演題で話をさせていただいた。

 玄奘三蔵を慕う。そのつもりであったのだが、準備を進めるうち、玄奘があまりに立派すぎて、安易に慕うことができなくなってしまった。

 困った。

 奈良の海龍王寺の石川重元さんに相談したら、ゴダイゴの「ガンダーラ」を聴いてみたらいいですよと言ってくれた。夏目雅子さんが三蔵法師役を演じて評判になったTVドラマ「西遊記」のエンディングテーマである。

 さっそく久しぶりに聴いてみたら、歌詞が素晴らしい。

 ガンダーラは「そこに行けば」「どんな夢もかなう」「苦しみさえ消える」「ユートピア」。でも「あまりに遠い」ので、あるいは「心の中に生きる幻なのか」と歌っている。

 現実のガンダーラはインドへの入口にあたる地域で、玄奘の目的地ではない。しかし、あまりに遠くて、もしかしたら幻かもしれない何かを求めて旅をゆく玄奘の心の内が、少し見えたような気がした。

 このドラマは実は続編も含め、三蔵法師一行はついにインドにたどり着けなかった。まさに幻のままに終わりを迎えたドラマであった。
夏目雅子さんが骨髄性白血病でこの世を去ったのはその5年後、まだ27歳だった。

 治療薬の副作用で髪が抜けてしまい、本人も家族も精神的にひどく苦しむ。でも彼女はこんなふうに言ったそうだ。「髪の毛くらい、いいわ。私、三蔵法師のとき、とっても素敵だったのよ」。

◆なぜ玄奘はインドへ旅立ったのか。

 お釈迦さまが説いた教え(仏教)は、お釈迦さまが亡くなると、整理され、編集され、経典にまとめられた。そして経典の言葉をどのように解釈すべきか、研究が徹底的に進められた。しかし、そうした方向性、つまり学者(学僧)にしかわからない仏教へ進んでいくのは、お釈迦さまの真意から遠ざかるのではないかという考えが生まれ、そのように考えた人々は、それまでにない内容の経典を、お釈迦さまが説いたものとして、新たにたくさん作り出した。

 仏教に関する書物(仏典)は大きく3つに分類できる。「経」「律」「論」である。「経」はお釈迦さまが説いた(とされる)もの。「律」は仏教教団のルール。そして「論」は論文。3つはそれぞれにまとめて蔵に収められ、3つともマスターした高僧を「三蔵」と呼ぶ。

玄奘が漢訳した大般若経(藤田美術館所蔵)
開催中の特別展「天竺へ~三蔵法師3万キロの旅」(奈良国立博物館)会場で。
 インドから中央アジアを経て、中国に仏教は伝わった。さまざまな仏典がばらばらに伝わり、中国語つまり漢字に翻訳されたが、インドと中国では精神的な風土が異なることもあって、正確には訳し切れないことも多かった。経典によって説かれている内容があまりにも違い、そして解釈もさまざまなので、勉強すればするほど、聡明であればあるほど、わけがわからなくなる状況が当時の中国の仏教界にはあった。

 玄奘はまさにそういう状況にいた。そして重要な仏典(たとえば『瑜伽師地論(ゆがしじろん)』)がまだ中国に伝わっていないことに気付く。それを学ばなければ本当のことはわからない。中国の仏教はいつまでも中途半端なものに過ぎず、人々の苦しみを救うこともできない。

 インドへ行こう。

 しかし、それは許されないことだった。当時の中国は隋から唐への移行期で、国の内外に乱れがあり、国外へ出ることが禁止されていたのである。玄奘は国法を破って旅立つ。そして「引き返せ」と命じる人に、玄奘はきっぱり告げた。「不東(ふとう/ひがしせず)」。インドから仏典を持ち帰る時までは東には向かわない。

 玄奘は、やせた赤馬に乗って、砂漠を行く。長さ800余里の莫賀延磧(ばくがえんせき)。「上に飛ぶ鳥なく、下に走る獣なし。また水草なし。このとき影を顧みるに唯一のみ」。玄奘の伝記『大慈恩寺三蔵法師伝』は玄奘の孤独な旅の様子をこう記している。

 このあと玄奘は西域の国々を経て、大雪山(ヒンドゥクシュ山脈)を越え、バーミヤンで巨大な大仏を拝し、ガンダーラに到った。そしてさらに北インドの各地をめぐり、中インドに入る。
数ある仏跡のうち、玄奘がもっとも心を打たれたのは、お釈迦さまが悟りを開いた場所(ブッダガヤ)だった。高さ15㍍ほどの菩提樹の下、お釈迦さまがそこに坐して悟りを開いたという金剛座は、すでに砂に覆われて姿を隠していた。金剛座の南北には2体の観音菩薩像が安置され、この像が砂中に没する時には仏法は滅びると伝えられていたが、なんと南側の像は早くも胸のところまで没しているではないか。玄奘は五体を地に投げてむせび泣くばかりだった。

 このように、長い旅路の果てに玄奘が見たものは、衰えつつあるインドの仏教の姿だった。玄奘はきびしい危機感を抱いてナーランダーに着く。

 ナーランダーには戒賢(かいげん)という100歳を超えた老師が玄奘を待っていた。玄奘は戒賢から念願の『瑜伽師地論』をはじめとする多くの仏典を学んだ。

◆奈良国立博物館は、開催中の特別展「天竺へ~三蔵法師3万キロの旅」に併せ、7月23日に奈良県新公会堂で「玄奘三蔵フォーラム」を実施した。パネラーは薬師寺管主の山田法胤さん、俳優の滝田栄さん、そして私。3人は2時間半にわたって熱く語り合った。

玄奘三蔵像(薬師寺所蔵)
開催中の特別展「天竺へ~三蔵法師3万キロの旅」(奈良国立博物館)会場で。
 山田法胤さんは「マルコ・ポーロやコロンブスのように、欧米人の冒険は〈もの〉を求める。しかし玄奘は仏の教えという〈心〉を求めた。そこが違う」というお話をされた。

 滝田栄さんはミュージカル「レ・ミゼラブル」で、14年間、主役のジャン・バルジャンを演じた。そして舞台が終わった時、もう演じたい役がないと思ったそうだ。その2日後にインドへ旅立ったのはさまざまな思いがあったからであろうが、帰国後に薬師寺から創作伎楽(ぎがく)の玄奘役をもらい、震えるほどの喜びだったと語った。

 私は「玄奘をめぐる七つの物語」と題して話をした。そのひとつに「瓜州(かしゅう)での沈黙」がある。
疑問を解く鍵がインドにしかないことに気付いた玄奘は、国外へ出ることを禁じた法を破ってでも西へ向かおうと決意する。

 そして国境に近い瓜州に到った玄奘は、1ヶ月間、そこで沈黙する。インドへ行くことの困難さを、初めて身にしみて知ったのだと思う。

 若さ(26歳/異説あり)の勢いでここまで来たが、非情なる現実を知り、言葉をなくしたのだと思う。

 国境には玉門関(ぎょくもんかん)があり、ここは抜けられない。そこを避けた北の道には五つの烽火(のろし)台があり、警備は厳重。なんとかそこを抜けられても、その先には莫賀延磧(ばくがえんせき)、広大な砂漠が待ち受けている。

 言葉を失った玄奘。しかし、この1ヶ月の沈黙が、玄奘を成長させ、不屈の玄奘へと変身させたのではないか。

 言葉を失う体験は、とても深い体験である。本当に深い体験をすると、人は変わる。

 3月11日の、あの大津波の映像をみて、言葉を失った人は少なくないと思う。私もそのひとりである。復興支援のためにメッセージをと依頼されて、私は書いた。「私は変わりました。3月10日までの私ではありません」。

 皇后陛下が心労で言葉を失われた時期があった。やがて快復なさって言葉を取り戻されたあとに、「もうだいじょうぶ。私はピュリファイ(浄化、純化)されました」とおっしゃったという。 

 やがて玄奘は旅立つ。そして17年後、玄奘は厖大な仏典を携えて中国に戻る。その後は、死ぬまで、ただひたすら仏典の翻訳を続けた。

 帰国から19年後、持ち帰ったすべての仏典を訳し終える前に、玄奘は力尽きて亡くなった。私の胸を打つのは、むしろこの後半生である。

 この後半生も、あの沈黙のなかで胚胎(はいたい)したのだろうか。

◆「玄奘をめぐる七つの物語」のうち、もうひとつは「無性ではないのか」だった。

 「五性各別」という仏教の考え方がある。唯識思想にもとづくもので、人間は、菩薩性・独覚性・声聞性・不定性・無性(むしょう)の5つに大別される。「性」は「姓」とも書く。
無性を除く4つの性は、それぞれに違いはあるものの、いずれにせよ、やがては悟りを開くことができる優れた人々である。これに対して、仏教をどうしても理解できないのが無性。無性はいつまでも凡夫のままで、決して仏にはなれない。仏になる種子、仏性(ぶっしょう)をもっていないのである。

 天台宗では「一切衆生(いっさいしゅじょう)悉有仏性(しつうぶっしょう)」といい、すべての人は仏性をもっていると説く。

 大学院で学んでいた頃、「仏教には関心がない」と言っておられた私の先生が、「そりゃあ五性各別より悉有仏性のほうがよさそうだな」とおっしゃったのを懐かしく思い出す。

 インドに到った玄奘は、ナーランダーで学んだあと、ある寺へ行く。そこには大きな白檀の観音菩薩像が安置されていた。

 その観音像には不思議な霊験があり、参詣人がとても多かった。そこで、人が近づいて像を汚さないよう、像の四方、7歩ばかりのところに木の柵が設けられていた。

 それでも人々は柵の外から観音像に花輪を投げる。投げた花輪が観音様の手や臂(ひじ)にかかれば願いが叶うという。玄奘も花輪を3つ作り、それぞれに願いを込めて投げた。

 ひとつめの願いは、旅の平安と無事。ふたつめの願いは、死後に忉利天(とうりてん)に生まれて弥勒菩薩(みろくぼさつ)に仕えること。願いを込めたふたつの花輪は観音像の手と臂にかかり、見守っていた人々は足を踏み鳴らしてどよめいた。

 しかし、3つめの願いが私の意表を突く。玄奘はこんなふうに祈ったのである。

「もしも私が無性でないのなら、頸に花をとどめたまえ」。

願いを込めて観音像に花を投げる玄奘
(藤田美術館所蔵「玄奘三蔵絵」より) 玄奘ほどの人が無性であるはずがない。誰もがそう思うだろうが、玄奘だけが思っていない。もしや自分は無性ではないのかと玄奘は考え続けてきた。「釈門千里の駒」と称讃されながら。

「五性各別」は決して差別的な考え方ではない。五性のうちのどれにあたるのか、他者にあてはめるのではない。自分自身がどれに該当するのかを考える。自分の問題として、自己の内面を真摯に見つめるための教えである。

 確かに「悉有仏性」は耳に心地よい。しかし、他の人たちはともかく、このような私に、本当に仏性があるのだろうかと、黙って静かに考える時間も必要だと思う。

 玄奘が投げた3つめの花輪は、見事に観音像の頸にかかり、人々はまたもどよめいた。
◆ 玄奘から遅れること1350年。私がナーランダーの遺跡を訪れたのは、昭和56年(1981)1月のことだった。

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